昭和57年6月8日 朝の御理解●② ②①
明渡 孝
御理解第94節『信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ』
昨日、夕食をいたしております時に、秋永先生がやってみえまして、先日から、幹部研修会でしょうか、(しがのしま?)で、一日、一泊二日で研修があっております。教務所から次長の山根という先生が、お話があったそうですが、まあいろいろな話を聞かしてもらったんですけれども。
今度の教報に、本部の方からの、信者は、「信奉者は頼りにしとらん」という何か記事が載っておるそうですね。信者、信奉者は頼りにしておらん。頼りにするのはもう、教師だけだというふうに、それがその、まあ問題になって喧々囂々(けんけんごうごう)もう、たいへんなまあことだったそうですけれども。秋永先生がそれを聞き終わってからね、合楽理念に基づく、基づいてその説明をしたら、言われておられる先生も喜ばれ、それから信者も納得がいった、というお話をしておりました。
合楽理念に基づくとね、あとからご直会の時に、その山根というたいへん偉い先生らしいですね、頭が良い。秋永先生のところにやってきてから、「まあ今日は、助け舟を出してもろうてありがとう、良かった」と言うてまあ、言われたというようなことでございましたが。九十何人か集まって、その司会を秋永先生が承ったそうです。
それでまあいろいろ、中にあるまあ、いうなら偉い信者さん方ばっかり集まっておるわけですから、秋永先生のところへやってきてから、「私は、あんたに三ヶ条、三つだけ聞きたいことがある。合楽教会のことで。それに対して答えよ」とこういうわけであった。
どういうことか知らんけれども、こういうところで私あんまり話したくないけれども、けれどもその、聞きたい。「どういうことですか」ち。ね。「合楽は、ご本部参拝をする時に、合楽の先生が一番正面に座る。後から来て。そして、ご祭典中でも水も飲むというのはどういうわけか」ち。また妙なとこ、いうなら見よるもんだなと思いますね。
次にはね、合楽教会がその、他所の信者を取ってあの広大な会館を建てたと。というような人もまたある。それからもうひとつは、何だったか、まあとにかく、いうなら愚にも付かないことだけれども、まあそれをひとつ、こんなわけです。こんなわけですというて簡単に説明したら、もうビックリしてしまってですね、もうとりわけ最後に、合楽では今度、百年祭を目指して千人参りの団参が進められておるが。もうそれこそ、もうあっという間に千人できてしまったというて、もうおそれいってしまって、もうお詫びに、今度はどうでも合楽教会にご参拝のおかげを頂きたい、というわけなんですね。
まあほんとに、問題にもならない、愚にも付かない、または説明をすればすぐ分かるようなこと。または、根も葉もないようなことを、いかにもそれをそのことのように、まあ(?)されておるということですけれども。これはまあいつものことで、まあいよいよ合楽教会のごひれいを感ずるわけです。
例えば今日の御理解、まあ本部の方で教報に載せておられるという、ね、「信奉者は、頼りにしとらん」ね。「頼りにするのはお道の教師だけだ」と。ならお道の教師は、それはなるほど、まあ全身というか全霊を、とにかく金光大神の手代わりとして、生涯かけての、いうなら約束ができておりますから、やっぱり頼りにするのは教師でしょうけれども、なら、教師とても頼りになるのがおったりおらなかったりだとこういうわけですけれども。
だから、そういうことを目くじら立ててどうこうということじゃないんだと。問題は、信心さして頂く者が、なら信奉者の一人ひとりが、ね、ほんとに金光教の信心がありがたいと分かったら、私どもの方から「手にも足にもならして下さい」というて願うのがお道の信心ぶりだといったようなね。
したら問題、いわゆる問題が問題になる、まあ解決したというわけなんですけれども。これは、教主様のお詩の中にありますようにね、「頼りなきものを頼りにする上の この頼りなき心なるかも」であります。
これは私が、いつもみなさんにも申しますように、いくら総代さんだから、信徒会長だから幹部だからと言うて、私は、全然、ほんとに頼りにしとらんです。ほんとですよ。ね。頼りになるものはほんとはない。頼りになるのは神様だけなんだ。
「はあ、もう総代さんあなた方に頼ってますよ」というようなことはない。ね。もちろん余計にお供えができるからできないからというようなことで、それをなら優遇するとか優遇しないとかということもない。問題は、それこそ心次第。神様から、いうならたくさんのおかげの頂けれる心の状態をみなさん一人ひとりが作って頂く以外にない。これはみなさんの場合でもそうですよ。
はあ、子供が頼りにならん、物が金がというふうなものを頼りにしたのではね、どうしても頼りにすると、そこに人間心を使うて、それを、頼りになるものを優遇するといったようなことになってくるです。ね。実際は頼りにはしとらんと。頼りにしとるのは神様だけだと。
もうあんたを頼りにしておったということは、例えば裏切られると、もうそれこそあっという間に倒れてしまわなきゃならんような結果すら生まれてくる。頼りになるのは神様だけだというような、まあいうならば建前。ね。「信心の手篤いのが真の信者」というのは、私信者のほうでもです、頼りになるのは神様だけだ、というような信心に一心を燃やされるということだと思います。ね。
●②昨日、萩の市川さんがご参拝になって、ほんとにもう、いろいろとお願いをしておかげを頂きますけれども、「これだけはおかげ頂かれんのはどういうわけでしょうか」というのは、奥さんが何か坐骨神経痛か何かで、何回も何回も座られなさるわけですね。ですから、お願いがあったんです。「これだけはどうしてもおかげ頂ききらんですが」ちゅうてここで言われますね。私、神様にそのことをお取次ぎさして頂いたら、「横」という字を頂いた。木偏に黄と書いてあるですね、「横」という字。
木というのは心のことです。ね。黄色というのは、こう色でいろいろ頂く時に、まあ真中という色ですね、どっちつかずということです。これに例えばなら、赤なら赤を添えますと紫になるです。ね。黄色に赤を入れると紫になるです。
というふうに、これは市川さん、あなたが、いうならば胃ガンと宣告されて、まあレントゲンにもちょっと出て、手術せねばならんという時に、当時の椛目にお参りになって、ね。神様一本でおかげを頂くと、いうなら腹が決まった。命にかかわるというのだから、もちろん一心にもなられた。だからおかげを頂いたのである。まあその時には、あなたの場合は黄色じゃなかった。もう赤地一色だった。だからおかげを頂いたんですよ。
奥さんの場合には、新聞を見ながら、テレビを見ながら「ほほう、坐骨神経痛にあげな薬があるばいのう」ちゅうて、薬の広告が目に映るごたることじゃおかげにならんでしょうね、ちゅうたら、「先生、(?)ございません」ということでございましたが。おかげの(きび?)というのはそうです。●②ね。
ですから、んならいうなら、頼りにするものは、そこにもあったりここにもあったりしたんでは、いうなら本当のおかげにはならんことが分かりましょう。頼りにするのはもう神様だけなんだ。しかも神様もです、ね、最近は非常に改式が多くなりました、ここは。また、今まで拝みよった神様と仏様ばたくさん、こう持ってみえる方が多くなりました。「もうそれ焼くとに骨が折れるのう、そげんとは」ちゅうごたると持ってきなさるです。
何とか( ? )かなんか、これはもう頑丈なですね、何かプラスチックできて、中にはダイヤのがたる光の入っとる。そげんともこの頃から、ある方がもう拝みませんから、もう金光様一本になりますから、昨日もやっぱ持ってみえました。
その方は、たいへん信心深い方ですから、たくさん仏様やら神様やらその、何々教団の拝むお社でしょうか、やらも持ってみえましたんですけれども。私は、一心を立てるというのはそういうことだと思うです。ほんとに分かったら、いきなり無茶苦茶じゃいかん。
もう合楽でご信心を頂いて教えを頂いて、うん。ね。これならぜったいだと見極めがついたらね、一心を立とる印に改式をしなさらなければおかしいです。または、もうほんとに、まあ有情無情の神様仏様は、もう処分してしまわなければおかしいです。ね。
そして、合楽の信心に、それこそ秋永先生じゃないですけれども、ね、どういう、なら喧々囂々話、ああのこうのと問題が起こっておっても、合楽理念に基づけばあっという間に解決する、ということは、いわゆる本当の真実だからなんですよ。ね。
教師が信者を頼りにするようなことではおかげにならと同時にです、またはそれを不同の扱いをするようなことであってもでしょうけれども。なぜそれをせんですむかというと、あなた方も頼りにはしてはいない。私は神様だけしかたよりにしとらん、というそこにキチッとしたものがあるから、私は頼らんですむと。
だから他の、何様神様にはもう頼らん。頼りにするのは、神様だけ合楽だけだということになってくる時です、ね。私は一心が立ったということになるのじゃないでしょうか。ね。
久留米の飯田先生じゃないですけれども、ね。今度の合楽だよりのあの苦茶無茶欄に、先生が投稿して下さるようになって、これからもずっと書こうというて約束して下さったということでございますが。その内容に触れますと、もうほんとに先生の信心を、まあ躍動たるものを感じます。
様々な信仰、遍歴をなさったけれども、ね、合楽に至って始めて、自分が願いに願い求めておった宗教、神様ここにあったと。ね。ちょうど二・三日前が、そのことを分からして頂いて丸一年になった、というて、まあそれこそ手篤うお礼のお届けがございました。ね。
それを頂いた、分からせて頂いたということがです、ね、そういう、いうならばお礼を申し上げずにはおれない内容です。ね。
元日のあの、何ですか、あの年賀状なんかにも、それこそ「合楽様一本に自分の心を決めた」ということを、まあ親戚友人、まあとにかく年賀状出される限りの方達に、まあ宣言されました。みなさんも受けられた方があると思いますけれどもね。
いうなら、もうそれこそ大音声に、いうならば合楽を宣伝されたわけです。ね。問題はその一心です。その勇気です。ね。なるほど、本部の方で「信者を頼りにはしてない」と言われたのも分かる感じがします。
どんなにね、ありがたいのどうのと言うておっても、金光教の信心のほんとの真髄に触れずしておるのに対してです、ね。もうそれこそ、これはお道の教師の場合は、身も心も金光大神に捧げるという、だから頼るならそういうところに頼ることになってくるでしょうけれども、それとてもです、実際は頼りにはならないということ。いつそれをここにするか分からない。ね。頼られるものは神様だけだということです。
しかもその神様が、たくさんの神様も仏様も宗教もたくさんあるけれども、ね、私はみなさんにですね、ほんとうに大音声で合楽教会の信心の素晴らしいのを、ここに極まるという、人間の助かる理念であると言われる合楽理念の素晴らしさをです、大音声でみんなに、どこででも宣言できるというか、呼ばわれれる内容をみなさん身に付けて頂きたいと思います。ね。
ただ枝葉のところ、さあ参ってみなさい、おかげ頂く、といったようなことじゃ、そんならみなさんもおかげを頂く。ね。例えば、飯田先生あたりの書かれたものを読まして頂きますと、もうそこに絶対のもの。これに極まったというものがあるのです。これはめいめいのところでね、それこそ、声を大にして合楽の信心が語られる内容を、みなさん身に付けて頂きたい。
今朝からそんなことを思わして頂いておりましたらね、これはたいへん意味の深いことだと思いますけれども、●②①「山で赤いのはツツジに椿、咲いてから舞う冬の花」というこれは磯節という唄の文句なんですけれども、頂いたです。
もうこれを私は頂いて、ほんとに合楽の信心の素晴らしいというのはこれだというふうに思って、これは説明することはたいへん、また難しくもあるし、めいめいで工夫して頂きたいと思うんですけれども。いうならば、合楽でいわゆる助かり、もう過去の宗教が説き得なかった、私はことだと思うです。
人間が人間らしゅう生きる手立てというか、ね。そういう、いうならば有り方というものを、ほんとに合楽の信心のここだというところをキチッと頂いて、ね、どんなに例えば、ならそこに悪口雑言があっておっても、それは知らんからであり、またはね、根も葉もないことであったりするのですから、それに言い訳をしろというのじゃないです。合楽の信心はこうだと、いうなら説明するならば、それこそ「はあ、そうでしたか。あっという間に分からして頂いた。今度はお詫びにどうでも参拝さしてもらう」という、言わしめれる内容を持っておるのが合楽です。●②①
だから、そういう合楽ですから、また中にはね、「これはもう合楽じゃ合楽じゃ」と、まあ合楽を怖がっておるというような向きもあるような話を昨日聞きました。合楽がほんなことちゅうのが分かっとる。
先だっても、今度ここの連合会の信徒会長、ここの信徒会長秋永先生が会長に今度はなりましたものね。だから、いうなら、甘木にもありゃ、久留米もあるじゃないですかと。評判の悪い合楽の私が会長になるということはおかしい、だから、というて辞退をしたということでございますけれども。まあどうでも秋永さんにということであった。
というのは、例えばもう、言葉口には言わんけれども、合楽の信心の確かさというようなものを、いわばみんなが合点してきたからじゃなかろうかと思うです。間違ったところの教会の信徒会長が、ね、いうなら甘木久留米関係のその長になると、成すということはです、私はそう感じます。ね。
ですから、それもし黙ってそれこそおりますから、まあこちらから別に説明しようとも宣伝しようとも思いませんけれども、そして、中にそういう勇気のある人がおって、合楽の、いうならば評判の悪いということがこういうことなんだが、どういうわけかと聞かれるような人があったら、それこそあっという間に説明をしてあげれれるような内容を、みなさん一人ひとりが頂いてもらいと思う。ね。
それにはまず一心が立てられる。ね。もう合楽の傾倒しきるということ。そこには何様神様が、中にあったんじゃいかんでしょうが。もう何もならんことですから。ね。麗々しゅう仏壇どんがお祭りしてあっては、ほんとに一心を立てとる言えないでしょうが。ね。いや、ほんとに合楽が分かったらですよ、でなかったら、まだあなたは、ほんとに合楽が頂けてないんだ、分かっていないんだということになるのです。その一心が立てばです、私は真の信者だと思うですね。
真の信心を目指さしてもらわなきゃならん。そしてその生き方の中にです、いわば合楽理念に基づかなければ頂けない。「山で赤いのはツツジに椿、咲いてから舞う冬の花」ね。そういう信心が自分の信条ともなっていく時にです、ね、いよいよ合楽の、いうなら御理念の真価というものが発揮されると思うです。ね。
それこそ飯田先生じゃないですけれどもね、大音声に呼ばわれれるだけの合楽の信心が語られる。ね。自分の知人全部の人達に宣言できる。「自分は合楽の信奉者だ」と。もし、合楽の信心とはと問われたら、各々と説明ができれる。ね。そういう信心をまあね、みなさんの一人ひとりの信条として頂きたい。そういう思いが今朝からしきりにするんです。ね。
「合楽、合楽」といかにも傾倒しておるようであっても、ね、あれだけ「合楽、合楽」と言いよった人が、あっという間にやめる人がある。なるほど頼りにならんなぁということになります。ね。
昨日の御理解じゃないですけれども、「神からも氏子からも、双方からの恩人は此方金光大神」天地の親神様が恩人と、金光大神を言われるのは分かります。けれども、氏子からもの恩人、大恩人であるとして、教祖金光大神が頂けるためには、いよいよ教祖の御教えというものが、こんなにも絶対のものであり、間違いのないものであり、深くて広いものだということを分からなければ、なら、金光大神をほんとうの恩人ということは言えないでしょう。
金光大神を大恩人として頂けれるところまで信心を高めて行きたいですね。どうぞ。